近世初期以来、有田、三川内(長崎県)、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里」と 呼ばれていました。
その一つ有田焼の誕生は17世紀初頭の1610年代と言われています。豊臣秀吉時代頃、戦乱に明け暮れた武将たちの間で茶の湯が流行っていました。茶の湯の指導的茶人であった千利休はわびさびの茶に導き、 高麗茶碗を珍重していました。秀吉は、そんな高麗茶碗を作り出していた朝鮮半島へとても関心を深めていたようです。
秀吉の朝鮮出兵の際(慶長文禄の役1592年~98年)、佐賀藩主の鍋島直茂は朝鮮の撤退時に何千という朝鮮陶工たちを日本に連れて帰りました。 そうした陶工の中の一人に、李参平(りさんぺい)がいました。和名を金ヶ江三兵衛(かねがえさんべえ)と呼びました。 李参平は、最初のうちは佐賀の多久にて陶器を焼いていましたが、なかなか納得のいくものが出来ず、 良質の原料、すなわち磁器を作るための陶石を見つけるために、旅に出ます。 李参平は多久から伊万里の地を経て有田に入ります。そして、1616年、ついに有田の泉山(いずみやま)にて、良質の磁石を発見します。 泉山の磁石は磁器原料・質量ともに条件を満たすものでした。そこから有田の窯業は急速に発展し始めました。
李参平は日本で初めて白磁を焼いた有田焼の祖と言われています。 近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い1610年代前半から、西部の天神森窯、 小溝窯などで磁器製造が始まっていたことが明かになっています。 こちらでは唐津焼から初期伊万里に移行する過程で生まれた初源伊万里なども焼かれ、興味深い陶片もたくさん出土しています。友人によれば 出光美術館収蔵の出光佐三が古唐津を集めるきっかけとなった丸十文茶碗の陶片も見つかったそうです。 海賊と呼ばれた男を魅了した古唐津は現代においても多くの人を魅了し続けています。 歴史を覆すようなロマンが有田の地にはあります。 今も友人たちは酒を酌み交わすと熱く語り合い終わりがないのです。
唐津焼でも書きましたが、そのほとんどは唐津市で焼かれておらず有田市や伊万里市で焼かれています。 有田焼は一般的には柿右衛門や鍋島のような色絵磁器を想像しますが、広義でいえば唐津焼も含まれます。 という意味で当店の作家さんの中にも有田で古唐津の再現をされている方もいますのでそれも有田焼に含ませていただきます。
AT-03KK | 菊花白磁豆皿 | 希望小売価格¥2,200 | 約φ85 X H25mm |
---|
AT-03YK | 波文染付六角皿 | 希望小売価格¥2,500 | 約φ95 X 10mm |
---|
AT-05 | 梅に鶯染付5寸唐草型打ち皿 | 希望小売価格¥6,000 | 約φ155 X 30mm |
---|
AU-01AM | 磁器染付 網掛け文蕎麦猪口 | 希望小売価格¥2,500 | 約φ85 X H65mm |
---|
AU-01M | 磁器染付 市松文蕎麦猪口 | 希望小売価格¥2,500 | 約φ85 X H65mm |
---|
AU-01KM | 磁器染付 格子文蕎麦猪口 | 希望小売価格¥2,300 | 約φ85 X H60mm |
---|
AU-01SM | 磁器染付 横線文蕎麦猪口 | 希望小売価格¥2,300 | 約φ85 X H60mm |
---|
AU-03FZ | 磁器染付 吹き墨菊花文豆皿 | 希望小売価格¥1,200 | 約φ75 X H20mm |
---|